院長紹介

少し私が医者になった理由を
お話しさせてください。

<幼少期>

私は兵庫県西宮市で、ごくごく一般的な会社員の家庭に生まれました。
二人兄弟の次男坊です。

幼少期の私は一言で言うと“ひょうきん”な子供でした。
何をするにもすぐにおどけて、家族をよく笑わせるお調子者でした。
4歳年上の兄がまじめでしっかり者だったので、よく比較されました。
そのため、普通にやっては体力的にも学力的にも敵わないと思った私は、周りの大人たちの気を引くために、自然とお調子者になっていたのかもしれません。
なんにせよ、周りの人を笑わせて笑顔を見るのが好きでした。

<小学校>

小学校に入っても、相変わらずお調子者キャラでふざけたことばっかりしていた記憶があります。
その一方、学年が上がってくると読書にはまりました。

当時はいい意味で娯楽が少なかった時代です。
ファミコンを持っている家庭なんて非常に珍しく、ゲームを持っている友達がいればみんなで押しかけて遊ばせてもらったものです。
もっぱら娯楽と言えば、友達と外で遊ぶか家で本を読むかくらいしかありませんでした。

我が家では、母親の教育方針もあり、漫画を買ってもらうことができなかったため、自然と本の世界にのめり込んでいきました。
毎週のように母親に図書館に連れていってもらって、読み漁りました。
「シートン動物記」「ファーブル昆虫記」なども全巻読破しましたし、当時はやっていた「ずっこけ3人組」シリーズ(知っているかな?)なども好きでした。
年間100~200冊はゆうに読んでいたと思います。
夜寝る時間になっても本がやめられなくて、布団の中で懐中電灯をつけて親に隠れて読んでいました。
おかげで小学校も高学年になる頃には、しっかり眼鏡っ子でした。

<エジソン>

偉人達の伝記もよく読みましたが、小学生の自分が一番好きだったのは「エジソン」でした。
そう、あの電球を発明したエジソンです。
エジソンは色々なものを発明していますが、どの発明も当時の人にとっては世界が一変するような大発明だったと思います。
まるで魔法のようなものだったと思います。

たった一人の人間が発明したものが、世界を変えていく。
数えきれない人を幸せにしていく。
幼心に「かっこいいなぁ」と思っていました。

<受験勉強>

さて、小学校高学年になり受験勉強が始まりました。
自分の記憶の中では受験勉強はすごく楽しかった記憶があります。
記憶のすり替えかもしれませんが…。

新しい問題に出会って、それを解いたらさらにレベルアップした問題が解けるようになる。
これを繰り返していくと、段々自分が強くなっているような気持ちになる。
さらに、レベルアップしてくると親もほめてくれるし、喜んでくれる。
まさにいいスパイラルに入っていました。
今にして思うと親にうまくおだてられながら、調子に乗せられていたのかもしれません。

とにもかくにも、そんな調子で勉強をしていたらグングン成績が伸びていきました。 自分で言うのもはばかられますが、当時は相当頭が良かったと思います。
塾の全国模試で一番になったこともありますし、いつも全国数十番以内に入っていました。
(中学受験を経験した方ならすごさわかってくれるはず)

ちなみに、余談ですが、
小学生くらいの時は、「かけっこが速い」とか「モノマネがうまい」とか、なにか一つの能力が抜きんでている男子は、女子にモテました。
その点、当時の私は「頭がいい」と「お調子者で面白い」の二つの要素を持っていたので、抜群にモテました。
ええ、モテました…。あの頃は…。

話をもとに戻します。 そんなこんなで、「兵庫の神童」と(多分)言われていた私は当然のように灘中学に行くものと思っていましたが、本番ではまさかの不合格。 親の転勤もあり、受験していた東京の麻布中学というところに行くことになったのです。

<中学・高校時代>

そんなこんなで、中学に入ってから、東京での新生活が始まりました。
なにをするにも人の多さにびっくりしました。
はじめての満員電車では、あまりに四方八方から大人たちに押されて、文字通り息ができない程でした。
中学1年生のひ弱な体だと、周囲の大人に押しつぶされながら、次の駅まで足が浮いた状態になってることもざらでした。

さらに学校生活でもはじめは関西弁が物珍しいのか、よくからかわれました。
一時はコンプレックスに感じていて、必死に標準語の話し方を練習していました。

慣れない東京生活が始まり、多少の苦労はしましたが、中学・高校時代は全体的に楽しかったです。
幸い、良い友人や仲間にも恵まれましたし、人並みに恋をしたり、少し悪さをしたり、たくさんの人生経験をさせてもらいました。

<1995年1月17日>

そして月日は立ち、高校生の終わり頃に至ります。
高校の終わりごろというと将来の進路を考える頃です。
自分は漠然と「科学者になろう」と思っていました。

そう、小学校の頃に思っていたエジソンへのあこがれ。
何かはわからないけど、何かを研究して発見し、世の中の人をびっくりさせてやるぞ!と思っていました。
そのため、漠然と「理系」の大学に進もうと考えていたのです。

しかし、私が医者を志そうと思う出来事が起きます。
忘れもしない「阪神・淡路大震災」です。
当時私はまだ東京にいましたが、朝起きたら両親がニュースを見ながら騒いでいるのを見て、事の重大さを知りました。

私自身は中学から東京で生活はしていましたが、親戚や友人はほとんど兵庫の西宮市周辺にいます。
さらにその当時、私の兄も西宮で一人暮らしをしていました。
そのころは今のように携帯電話やSNSも発達していなかったため、電話もなかなか通じず苦労しました。
親戚や友人の安否も全然確認出来ない状態でした。
父は早々と会社に休みをもらい、スキーバッグに大量のミネラルウォーターを詰め込み、西宮の兄の元に向かったのを覚えています。
日々流れるテレビニュースに呆然としながら、ところどころに入ってくる安否確認の電話。
良い報告も悪い報告も同じくらいあり、その都度一喜一憂する毎日でした。

<無力な自分>

そして、自分の地元がこんな大変なことになっているのに、遠く離れた土地で何もできずにただニュースを見ている事しかできない、自分の無力さを嘆きました。
ボランティアとして駆けつけようかとも考えましたが、当時高校生の自分にはできませんでした。

今ここでまた同じような災害が起こった時に、自分は何ができるだろう。
多分やっぱり何もできないだろう。
なんて無力なんだろう。
もっと力が欲しい。
人を助けられる力が。

この経験が私を医学の道へ進めることになりました。
いつかたくさんの人を救う道もやっぱりかっこいいと思うけれど、
まずは「今目の前で困っている人たちを救える人間になりたい!」と強く思うようになりました。

そこから医学の道に憧れ、医学部を目指すようになります。
念願の医学部に入ってからの大学時代の話、医師になってから急性期医療・内視鏡治療にあけくれていた話、なぜ在宅医療を目指すようになったのかの話…
まだまだお話したいことはありますが、それはまた別の機会に。

私は今でも思っています。

「僕にはエジソンのように
世界中の人たちを
幸せにするほどの力はないけれど、
僕の目に見える、
手の届くところにいる人たちは
必ず幸せにしたい」
川西ほんわか訪問診療クリニック 院長 / 上野 圭介

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